詩 「さしもの鬼子母も」  狩野敏也詩集「中国悠々」より  2007年2月の別ブログの中から選抜 [詩]

詩 「さしもの鬼子母も」  狩野敏也(かのう びんや)

お婆ちゃんの原宿といわれる雑司ヶ谷の
鬼子母神を日暮れに訪ねた
安産と育児の神というのに、もはやその何れにも
関わりのない老婆たちがひしめいていたのだが
ボクが近づくと、なぜか連中は跡形もなく消えて
鬼子母神とボクは一対一と、あいなった
(その形像極めて端麗にして、天衣・宝冠をつけ
一児を懐にして吉祥果を持つ彼女に対して
恭しく一礼すると、鬼子母神はニヤリと笑った

「いゃあ、あのときゃ参ったな
ジャリが五百人いようが千人いようが
年とってもうけた子の可愛さは格別
末子の嬪伽羅を仏陀に隠されたときにゃ
恥ずかしながら一時は半狂乱になり申した」
と、端正な顔から、これは意外な伝法口調
(初め他人の子を捕りて食いしが、その最愛の
末子を仏に隠されてより改心し、のち遂に仏の
五戒を受け千子とともに正法に帰依したり)
・・・というのが真相でしょうと恐る恐る訊ねると

「いや、とんでもない、わたしゃ、人を食うから
鬼なのではない。鬼だから人を食ったのじゃ
柔らかい乳児、酒飲みの男の粕漬けのような美味
爛熟した人妻の味わい、老爺の堅いのもまたよし
我が子の一人や二人隠されたぐらいで
この悪癖が、にわかに改まるものか・・・あの子を
隠されてからも、しばらくは人を食っていたわな」
(それではいかにして?・・・)と思うやいなや
口に出さぬうちに彼女はボクの心中を読みとって

「これじゃ、これじゃ
仏陀はこれで我慢せよとて下さったのよ
鬼子母神は懐から
一房の奇妙な果物を取り出してボクに投げ与えた
(アッ、茘枝・・・。あの楊貴妃も愛したという・・・)
ボクは絶句しつつも、そのごつごつした果皮を
すばやく剥いで白い実を頬張った。
(うん、たしかに人の肉の味がする、これなら充分、
代用になるな)と納得しながら鬼子母神を見上げると
彼女は、もはや寸分の身じろぎもせず、いつの間にか
もとの冷厳で端正な表情の木像に戻っていた



その饒舌な風刺、これでもかこれでもかと吹き出て来るユーモアのある会話に引っ張り込まれる。
狩野敏也さんから頂いた詩集を、元気がなくなると読ませていただいています。
架空の人物と熱い会話を弾ませることの出来た詩の魅力!
背骨は知性ではあるけれども、濃くてとろとろと旨く、独特なしかもどこか品のあるスパイスが溶け込んでいる狩野敏也さんのそれぞれの詩の読後に、様々な笑いが尾を引き、何日も続きます。
このような独自なぞくぞくする面白みはどこから来るのでしょうか。
私の狩野さんの詩の入り口は、「さしもの鬼子母も」(詩集・中国悠々から)でした。
詩雑誌の中に何十編も載っている、新しく買い換えた家や車を愛でるような、または萎れた花をいとおしむような、きれいなやさしいしずかな詩群の中で、この1編だけ、その時の私には、力強く存在している食虫花に感じられびっくり仰天しました。
同じような顔をした沢山の詩の中で、名前がなくてもこれは狩野さんの詩だと迷うことなく見つけられます。
何十年もの間、自分に足りていなかった濃いエキスをこの歴史ある詩鍋でたっぷりと味わえました。
8冊目の詩集「四百年の鍋」のような鍋がほんとうに中国の奥地にあるらしいです。
熊の手の時間のかかる料理があるのも狩野さんの詩で知りました。
狩野さんは料理本も出しています「男たちの料理」「花ひらく中華料理」歌曲のCDも、絵本も出版なさっています。
詩集は7冊目「中国悠々」8冊目「「四百年の鍋」9冊目「二千二百年の微笑」
いらぬ説明より自分の「さしもの鬼子母も」を書いてみろと鬼子母神から急かされます。


●詩の最後には茘枝(れいし)の説明がありましたがここでは省きます
 ルビがつけられなかった語の読み方  
嬪伽羅(ひんから) 吉祥果(ざくろ)













       
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