再びドキュメンタリー映画「100000年後の安全」 監督 脚本 マイケル・マドセン 浜岡原発 廃止 [映画]

近況報告<扁桃腺炎でしばらくブログの返答(笑)ができませんでした>

放射能は人間の五感では感じることができない。
肉体が放射能を浴びれば直載に、又は緩慢に人は死に至る。
人は肉体なしでは、魂の望むところを成し遂げることはできないから、肉体あってのものだねである。
高レベルの放射性廃棄物をたちどころに最終処理し無害にする施設は今のところない。
10万年かけて、地下500メートルの18億年前の地層に、放射性廃棄物を保管する埋蔵場所が、フィンランドのオルキルオト島のオンカロ(隠された場所)に建設中である。しかしここは22世紀で満杯になる。
放射性廃棄物をロケットに乗せて太陽に打ち込む方法も考えられたが、発射されたロケットが爆発する恐れがある。
海溝深く沈めるにしても天災の懸念がある。
津波や福島第一原発のメルトダウン、放射性廃棄物についての人間の無力感にさいなまれ、個人的には苦しい鬱の状態が続いたが、伯母(父の姉)が亡くなったので日常の付き合いの意識が戻って来た。
フィンランドのオンカロに埋蔵された放射性廃棄物が満杯になった場合は、施設自体をなかったもののように埋めるそうだ。
このような施設があることを忘れて欲しいと言うのは、放射性廃棄物を掘り出し、戦争やテロ組織に利用される事を恐れての発言である。
しかし1000年後10000年後に記録や記憶がなくなって、何かの影響で、放射性廃棄物を掘り当ててしまうことがあるかもしれない。
ドキュメントの映像では、棺のようなものに納められた放射性廃棄物を、水槽の底に沈めていた。
あんなことで本当に安全なのだろうか。隕石の到来や地震で地層に亀裂が入ったらどうするのだ。
建設中の施設の地下の地層を爆破する音が不気味に響いていた。
威圧して消えていく悪魔の声のような音が何よりも恐ろしかった。


個人的には西村賢太の奇跡だと言われている新しい私小説が激烈に面白く読めた。
必ずや慊い(あきたりない)や衒う(てらう)、俯く(うつむく)、些か(いささか)などのむずかしい漢字がそこここにごまんと使用されていた。
人にわかりやすい言葉でわかるように書かなければならないと言うような学校教科書風のお小言のような決めごとが通じなくて痛快である。
疼痛で仕方なく踊り転げるようなおかしみがあるのだ。
この人にとってはそういう人一倍破格めいた最低なこともあったのだと悲しみつつ泣きながらおもしろがれるのだ。
「根が人一倍見栄坊にできている彼は、本来ならば自分と同年齢の者の大半がそうであるように、普通に大学生であるのを普通に誇っていたいタイプである。当たり前の学問と教養を、ごく当たり前に身にまとっていたい男なのである」(苦役列車より)
ここで使用されている「普通」や「当たり前」という語は、この作家にとっての切り口に使用される語である事を心得ておかなければならない。
濃くゆがめられた感情や語り口が人間の本生をずばりと言い当てていて溜飲が下がる。
普通は普遍と言うのとは違う語彙である。
松子デラックスが連続して使用する「フツー」も面白い。
西村賢太の私小説の暴言や暴力にはもちろんのこと、世に顰蹙を買う夢想と買淫、逆恨みと踏み倒しには悲しくも絶大なおかしみを覚える。
絶大と言う語の語彙や使用基準がわからない、人によって基準が違うという向きもおられるだろうが、こだわる人はこだわりを人に押し付けず、上げ足を取らず、わからないまま自分の基準とやらにとことんこだわるといいのだ。


北海道に家を建てた佐藤愛子が、ほんとうにアイヌやキツネや得体のしれないものによって、たたられた事実を小説「私の遺言」に書いている。そういう点では作り話ではない。
なくなったものが、別の部屋にちゃんと並べられてあったり、ぞっとするようなあり得ないことの連続が書かれている。
作家は、逃げ出すのではなく対処し続けている。




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