詩「心を洗濯する」   絹川早苗     詩集・マダム・ハッセ―より [詩]

★ お詫び
前回投稿の、湯ネッサンス「テルマエ・ロマエ」は、下書きに保存するのを忘れ、三分の一ほど書いたところで公開してしまい、気付いた時には約30人の方々にナイスをいただいていました。ほんとうに失礼いたしました。




詩「心を洗濯する」 絹川早苗    詩集マダム・ハッセーより

命の洗濯 と言う
日に一回掃除をするように
マダム・ハッセーは 心の洗濯をする


不快 屈辱 煩いなどは 洗い流し
傷口もちゃんと消毒して 日に晒す
積もれば垢じみ脂じみて汚ない
しかし他人へ与えたものは 決して忘れてはならない
洗い清めるには手間ひまがかかるのだから
それらは ときには膿むことさえある
だからマダム・ハッセーの心は いつも
糊のきいた さらりとした手ざわり
風と陽のにおいもして


館の扉を押した あなたは
遠来の客のように珍しがられ 歓待されるだろう
 (ときには きのう会ったことさえわ忘れられているけれども
いつも懐かしい 手なれた木綿の抱擁


マダム・ハッセーに 特別な親友はいない
けれども 誰もが いつでも親友になれる
 (それは はかなく 寂しいことだろうか?
 (人目にふれなくても野の花は 精一杯咲ききってから散る


※ 詩人の絹川早苗さんは、詩集「マダム・ハッセー」のあとがきに、「マダム・ハッセーは、作者の自画像?憧れ?哀れみの対象?それは本人にもわからない。腹話術で人形が、いくら操る人間から離れた声やパーソナリティを与えられても、やはり根元はつながっている、と言うようなものかもしれない。」と書いている。
いつも穏やかな雪洞(ぼんぼり)の灯のような詩や、自然と一体化してその一部になった詩を、遠近の距離をたもちつつのその奥から書かれる詩人だ。
絹川さんは、よい意味で自然界の操り人形と化してしまっていて、草や木や動物の言葉がわかり、草や木や動物になって、そこから発信しているのではないかとさえ思える。(もちろん人間の絹川さんとはつながっている)
今回の詩は、一層かりやすく、万人に共通するものが含まれている。
最期の一行の「人目にふれなくても野の花は 精一杯咲ききってから散る」は、しつこい教訓とは別世界の域にあるものとして、素直に胸にはいってくる。



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