鋭い指摘の矢 山下聖美「宮澤賢治のちから」(新潮新書)より [本]

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「宮沢賢治のちから」著者 山下聖美 新潮新書


本の題名の「宮澤賢治のちから」とは、様々なエピソードと稀有な心象作品で人を魅了してやまない今は亡き賢治本人の存在はもちろんのこと、戦中戦後を通じて日本人の心の支えになり、日本人の心の中に脈々と生き続けてきた「雨ニモマケズ」のことでもある。
「雨ニモマケズ」は、賢治が残したトランクのふたの内側にある内ポケットにひっそりと残されていた黒い手帳に書かれており、昭和九年二月、東京で開かれた第1回宮沢賢治友の会で、宮沢清六氏(賢治の弟)によってはじめて発表された。


「雨ニモマケズ」は、第二次大戦中昭和17年「詩歌翼賛第二集」と言う雑誌(数十万部発行された)に掲載された。
発行元の大政翼賛会は、ドイツのナチス的体制を模倣して作られた、侵略戦争を鼓舞する政治組織だった。
「雨ニモマケズ」は、数奇な運命をたどりながら、日本人の記憶に刻まれていった。
戦前よしとされてきた多くのものが否定された戦後も、「雨ニモマケズ」は教科書に掲載された。
「雨ニモマケズ」が、折々の指導者層にうまく利用されてきたという面は否めない。
しかし、それが戦中戦後を通じて日本人の心の支えとなってきたことは事実である。
日本中のいたるところに、賢治の個人的な理想ともいえる「雨ニモマケズ」の詩碑が建てられた。
「~ニモマケズ」と言うフレーズは今に至るまで、オリジナルはもちろん様々なパロディーでもお馴染みのものとなっている。
もはや宮沢賢治は、さまざまな媒体により再生産される、経済的価値を伴うブランドとなっていた。
一人歩きを始めた賢治とその作品群。その歩みは、二十一世紀を迎えた現在も衰えることがない。



<賢治を37歳の若さで死に至らしめた性向の一因は両親によってつくられた>のではないか

★思いも及ばない本書、山下聖美「宮澤賢治のちから」の指摘に唸ってしまった。
そう言うことも原因の一つとしてあるかもしれないと思われるのだった。
なかなか言いにくいと思われることについても単刀直入に述べている。


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<父 宮沢政(まさ)次郎>
賢治が7歳の時に、膝に腫れものができたことがあった。
父の政次郎が素人療法で薬をぬったところ、今度は火傷のようになってしまった。
耐えかねた賢治が痛みを訴えると、政次郎は「そのくらいのことで男の子が痛いのか」と叱りつけた。
父のこの言葉こそが、賢治が終生、痛みに呪縛されるきっかけになったのではないだろうか。


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<母 イチ>
母イチによる賢治の自己犠牲の精神の、最も身近な象徴が、痛みと言う感覚であったのかも知れない。

★賢治と母の関係、賢治と父の関係は心理学者によっても研究し尽くされている。
★以下はブログ主が他の本から選択して記述。
「人と言うものは、人のために、何かしてあげるために生まれてきたのス」と母イチは、賢治と添い寝をしながら、毎晩のように言ってきかせていたそうだ。(「父は子をどのように見ていたか」森荘己池 宮沢賢治童話集 中央公論社 1971.11月)


母イチ「どうして賢さんは、あんたに(あのように)、人のことばかりして、自分のことは、さっぱりしない人になったべス」
弟清六「なにして、そんなになったって言ったって、お母さんが、そう言って育てたのを忘れたのスか」
(宮沢賢治の音楽 著者佐藤泰平筑摩書房)


★鋭い指摘の矢は、すこぶる評判の良い賢治の弟、清六氏にも及ぶ。
研究者の場合、必要に感じれば、ほとんどの人間が作者の家族に会いに行かなければならないこともあると思うが、それは「清六詣(もう)で」と呼ばれ、間違いがないというお墨つきは「清六マーク」と呼ばれていた。
清六自身が賢治になってしまったかのような錯覚を抱いてしまったようであった。
(鶴田静「ベジタリアン宮沢賢治」より)




★下記をクリックすると人情味あふれる「柴犬カンチの足跡日記」を見ることができます。
カンチちゃんは「雨ニモマケズ」なんて知らず今日も家族に甘え、仰向けに寝て家族をなごませている。
お肉が大好きなのだが、たまにしかもらえず、好物のうどん(ダイエット中なのでそうめんに変えられている)をうまそうにすすっている。
http://blog.livedoor.jp/kanchi_m/
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