私見 お盆前の納骨堂で  [雑感]

納骨堂の小さな骨壺の中は静止した川底に似ていて、黄色い目をした緑色の蛇のようなものが横たわっている。
緑青の水晶の時間が、父と骨の残っていない赤子(一美ちゃん)の骨壷をさびしく包んでいる。

「あんたは一美ちゃんの生まれ変わりやね」と母に言われた私の首に死んだ赤子がまとわりつく。
お盆がめぐってくると、再び母の声が聞こえて来て、耳を伝って降りて来る赤子が、冷たい火傷のように首にはりついて離れない。
悲しいかな、嬉しいかな、その重さが兄妹の絆を唯一確めるものとなっている。

私は渇(かわ)く。
冷静な均衡を取り戻すために、緑青の水晶の時間に私の喉(のど)が触れたがる。
液体になった時間を飲み下す時、喉を潤すものはサイダーに似た気泡を含んでいる。
生きていた死者たちを死から取り返せない現実が身にしみる。
もうとっくに認知症でそのことを忘れてしまった母は朗らかである。


寺を訪れた死者の家族は、亡き人への思いがつのり、はしゃいだり黙りこんだりする。
「あのような人だったけれど、今は悩みもなくなってどこまでいったろう。阿弥陀様に抱かれて、安らかに過ごしているんだろう。」

「魂などない、生きている人のためにお盆はあり、参列者のためにお経を読んでいる」と言う坊さんばかりで、私の嘆きは肩すかしを食らいながら闇の中へ落ちてゆく。

生身の人間が、肉体を失い、肉体がないので、そこできっぱりと何もなくなるってことか。
赤子の時になにもなさずに亡くなった親族や、猛烈に苦しんで亡くなった家族が、骨になってそこでもうおしまいでなのですか。



雨が何万年か前に山の噴火で固まった岩盤地形を侵食した。
硬い丸い石が川底を研磨した。
繰り返される豪雨のたびに、壺状の穴に幾つもの小石が入り込み輪廻のように回り続けている。
流水は入れ替わっていのるだが川底の時間の容量は無限である。
劫初から何事もなかったようなすがすがしい静けさが流れている。
時間は骨や骨にまつわるすべての人間関係が無くなってさえも存在し漂っている。


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