賢治にとりつかれた人々「賢治文学 呪いの構造」山下聖美 [本]

山下聖美氏は、字もそっくりに賢治になりきる弟・清六氏に言及し、歯に衣(きぬ)着せぬ率直な意見を述べる日本近代文学研究者である。


以下「賢治文学 呪いの構造」著・山下聖美より
賢治の弟の清六氏は、八歳年上の兄・賢治が宮沢家の長男としての役割を果たせなかった家業を引継ぎ、結婚し、子供をもうけ、賢治の原稿を戦災から必死で守った。
このような働きは最大に評価してしかるべきものである。
しかし賢治を研究したり、評論しようとする者は、こぞって清六氏のもとを訪れて、おすみつき「清六マーク」をもらうために顔色をうかがった。
「清六詣(もう)で」なしに、賢治についての文章は発表できないという暗黙のルールが存在していたのだ。

作品の解釈は読者にゆだねられているわけで、読者がどう感じようと、それはそれでまったく自由なはずだ。
ましてや作者自身でもない遺族が、読者の解釈を制限するなどあり得ない話である。

賢治 リヤカー.jpg
羅須地人協会時代(1926年~1928年)の賢治。 当時花巻にリヤカーは20台ほどしかなかった。賢治は、リヤカーに開墾畑で作った西洋野菜や西洋の花々を乗せて売って回ったが売れなかった。


<賢治をめぐる現象>
1996年賢治生誕百年のその年、日本には空前の賢治ブームがおとずれた。
テレビ・新聞・雑誌などのマスコミ、映画・演劇・朗読・コンサートなど宮沢賢治の名前を聞かない日はないといってもよかった。
「賢治まんじゅう」「賢治弁当」「賢治クッキー」「賢治キーホルダー」「賢治Tシャツ」などが売られた。
鳥山敏子は、「賢治の学校」なる本を出し、賢治の素晴らしい教育を実践する自らの教育論を述べたうえで、「みんなが賢治にかえる、みんなが賢治になれる」と主張した。
この本は十万部を超えて売れたというから、十万人を超える人が「賢治になれる」と少しでも感じたことになる。
1996年をピークに、もはや賢治は確実に、遺族にも手に負えないほど、不気味に膨張した存在になってしまったのである。

~~~つづく~~~

柴犬カンチの足跡日記 
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