詩「キャベツ売り」  詩誌 二兎より 水野るり子 [詩]

「キャベツ売り」  水野るり子



路地のリヤカーで キャベツをひとつ手に取ってゆらゆらゆす
っていたおばあさん かたわらで愛想よく話しかけていたキャ
ベツ売りのおじさん あのひとたちはあれからどこにいったの
か 今日も路地裏はひとすじどこかへつづいていて ゆがんだ
リヤカーの影だけがうっすら地上に落ちている


雲が近づいてくる 街は雨になりかけている 雨音のカーテン
が垂れさがってくる 台所でじきキャベツが煮えはじめるだろ
う じゃがいもと玉ねぎと どっしりした肉のかたまりが 暗
い鍋の底から ポトフの匂いとなってあふれ出し 街の辻つじ
を流れていくだろう それは人々の耳の底を濡らし 門口につ
ながれた 老いた犬たちの耳を濡らすだろう

夕ぐれごとにキャベツが街に運び込まれ 積み上げられ ひと
つずつそのかたちがくずされていくのを 夢のなかからのよう
になすこともなく見ている キャベツがもがれ キャベツが剥
がされ キャベツが刻まれ キャベツが巻かれ キャベツがつ
ぶれ・・・ やがてもやが深くなり もの売りの声が近づいてくる


まるごとキャベツのスープには
ねじねじスプーン
らんぎりキャベツのスープには
だんまりスプーン
スプーンはいらないか
だぁーんまりの・・・   キャベツには・・・


路地でひそひそ話す声がする いつからかキャベツ売りを見ない
な スプーン売りばかりだ 野菜畑は黄色く末枯れて いちめん
真冬の巣みたいだ・・・ しっ、けもの道を何かが来る 昨夜もだ・・・
朱色の舌を垂らしたあのいきものたち・・・ (大鍋の底でキャベツが
黒く焦げついている・・・) 人びとはやがて銃を手に裏庭から出てい
くだろう それが今夜なのか・・・ 明日なのか分からない



★水野さんは現実と夢の境が溶けあった間に立っていて、どちらからも聞こえてくる話し声や音や音楽を伝えてく れる。望めばそのフアンタジー世界は何処にでもつながっているので未来人や過去の人とも出会えるのだ。


近況
6月末~7月初めは皆さまのブログにはゆっくり訪問させていただいています。
遅れがちで申訳ありません。

6月末に80人ほどの人たちで慣例の音楽会を催した。
リハーサル時間や食事の順番、演奏のプログラム作りや指揮や即興演奏等で疲労困憊したが楽しかった。
次回は花輪和一氏の漫画「ニッポン昔話」上下巻を御紹介
はまっているブログは「柴犬カンチの足跡日記」ここをクリック


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詩「もう馬鹿ジャコと呼ばないで」  狩野敏也 第十詩集「もう翔ぶまいぞ」より 2012年11月30日発行 [詩]

日常詩派と難解詩派の深刻癖による面白みのない詩ばかりが云々と囁かれている詩界の昨今、いただいた狩野敏也詩集「もう翔ぶまいぞ」の帯に書かれている言葉が、我が理想とする詩境だったためビシッとなり、欣喜雀躍した。


<詩集「もう翔ぶまいぞ」の帯の言葉>
「虚実皮膜を縫い合わせ、正史と矛盾しない稗史や異説も大胆に取り込んで、亡霊へのインタビューすら辞さない。動植物は無論、抽象名辞まで擬人化して語らしめ、修辞・諧謔の秘術を尽くした会心の作」

童話「銀河鉄道の夜」ではジョバンニ側の心情をたどり、童話「クンネズミ」についてはクンネズミ側のくやしさ、どうしようもなさをたどることにしているが年を越してしまうことになった。

2012年、最後に見た面白い映画は「ホビット 思いがけない冒険」だった。
住んで見たくなる懐かしい家、岩山や滝の絶景、霧ふり山の地底湖に棲む2重人格の怪人ゴラムの謎かけやスペクタクルが強烈だった。

2012年、食べたもので絶品だったものは友人の御母堂が作って下さった「ぜんまいの煮物」
日光を存分に当て最小限の水で手塩にかけて育てた知人のみかん山の、ぐみ味と木イチゴ味と小みかんの味の混ざった完熟蜜柑。
仕事で好きになった曲はウエーバーの「狩人の合唱」(3部)など





詩「もう馬鹿ジャコと呼ばないで」 


キビナゴ
(黍魚子の中でも、器量よしだったつもりのわたし
なぜか長いこと「馬鹿ジャコ」と呼ばれていたの
だけど 魚類学会の先生方が
「琉球キビナゴ」って改名してくれた
嬉しくって もう、馬鹿ジャコと呼ばないで・・・と
思わず叫んでしまったわ


そうなのだ
アホウドリとかナマケモノとか
動物名の差別表現を改めよう
という動きが学会にあり
まずは 日本魚類学会の手によって
一挙に五十近くの魚の改名届けが出された

≪魚の世界は進んでいます
変わりましたねえ 随分と 種名ばかりか
属名も科名もぞくぞくと変わりましたよ
ラレリルレロラロ
口の体操をしてから舌を嚙まずに読んでご覧
傍点のついたところが、いけないのですって・・・≫

・  ・ ・ 
メ ク ラウナギが→ ホソヌタウナギに

    ・  ・ ・
オキナメ ク ラが→ オキナホソヌタウナギに

・ ・
オシザメが→チヒロザメに

     ・  ・  ・
ロケット イ ザ り ウオが→ロケットカエルアンコウに

・ ・ ・
セ ム シ ダルマカレイは→オオクチヤリガレイに
     ・・ ・・ 
猫背のセッパリ カジカは→ミナミコブシカジカに


≪ だけど 硬骨魚目のおじさんがたからは鋭いクレ―ム
 ・ ・ ・
『テナシ ゲンゲがヒレナシゲンゲに変わったが
魚に手などない ヒレの無い魚にヒレ無しと言うのは
魚に対する差別語じゃないのかね
皮を剥いで調理するからカワハギなどという
酷い名前も残っておる』とね ≫


≪そして こうも言われたわ
『琉球キビナゴなんて自分だけいい名を貰って・・・
はしゃいでいるばあいじゃないぜ・・・
こんな名じゃ魚が可哀そうだというんで
変えてくれた訳じゃ ないのだよ
こりゃあ 人間のご都合次第なのさ』≫

≪だけど 滅入っている私に
明るいニュースが入った
いや驚いたわ
恐れ多くも一介の魚の学名に
天皇の名が付いたのですよ
神武天皇以来 未曾有のことではないですか≫

2010年の暮れ 豪州の2名の学者が
ハゼの研究者として著名な陛下に
敬意を表明
新種のハゼの学名を
「ブリオレピス・アキヒトイ」と命名
日本魚類学会の英文誌に発表したのだ

≪その天皇さまが 今度は
絶滅種のクニマスを70年ぶり
奇跡的に山梨の西湖で再発見した
サカナクンに名指しで
お褒めの言葉をかけて下さったりして・・・
このところ魚族の地位はぐーんと上がった感じ≫

≪そう言えば最近
錦鯉に紋次郎とかお鯉とか
呼び名をつけることがはやっているとか
そういうところもファ―ストネームだけで
姓のない皇室とそっくりではないですか
なにか魚心にも親近感を覚えますねェ≫


*日本魚類学会は2006年魚の標準和名49語を改定した
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詩 「感傷的な草むら」 水野るり子 [詩]

「感傷的な草むら」 水野るり子    (詩誌 ひょうたんより)


夜の雨が降っている 部屋の片すみに戸棚が置かれて
いる どこかで見た戸棚だ 木目の引き戸に手をかけ
ると ふいに草むらの匂いがする

しんかんと風が吹いている あてもなく あるいて
あるいて 草の穂の匂いを胸に吸いこむ とおくに
古びた電話ボックスがある 小さなドアがいきなりば
たんと鳴る

(あ、かたわらに灰色の馬がつながれて首を垂れてい
る・・・耳だけがかすかにうごいている 百年も前に乗
りすてられた馬みたいだ)

月がのぼったのかあたりがあかるい バッタがいっぴき
足もとで跳ねる しゃがんで ゆびさきにつまむと
みどりの脚がてのひらを強く弾く でも放さない

(どこかにもうひとつの草むらがある気がして・・・)

つまづいた草の根の渦巻き 沼の匂い 小さな落と
し穴 小石で作った七つのお墓 片意地なあの子の
口もと ねころんで ならんで 見上げた空の伸縮・・・
まんまるい梨の実みたいないちにち あれは嘘?

もぎ取ることのできなかったいちにちへ・・・磁石の針は
振り切れ 手のひらでバッタの脚が冷えかける 子ども
たちの声が空から響く 雷鳴のように

(あ、さっきの灰色の馬は何処へ・・・ つながれていた
杭もない そのあたり、 ただ草むらが濡れてしんと
光っているだけだ)

帰ろうか・・・後ろ手に引き戸をさぐる 来た道を背中で
さがす 夜の雨の降りしきるあそこまで また 一歩
一歩後ずさりしながら 人知れず戻って行けるだろう
か、それとも・・・・。




現世と夢の世界の境界線に立つ。
行間(ぎょうかん)の音なき音を文字にすると「ジーン ジーン ジーン」。
銀河鉄道の夜の少年ジョヴァンニが、亡くなった友人のカンパネルラと
夜汽車の中で会話をし、いつの間にかいなくなってしまっていたカンパ
ネルラに気づいた後の嘆きに似た何とも言えない寂しさを、私たちは
何世紀にも渡って体験してきたが、まだ慣れることが出来ない。
水野るり子さんの詩には、姿を消したものたちへの哀惜の念が漂う。
(月夜のうずのしゅげ)


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水野るり子詩集から詩  ・  詩誌「ラプンツェルのレシピ」の絵 [詩]

詩「手紙 ー クジラの耳かきに ー 」 水野るり子詩集より  
  新・日本現代詩文庫100  土曜美術社出版


ゆうべ私は、引き出しの奥で古い一枚の絵葉書    
を見つけました。 それは風に乗って届いた便り
でした。≪昨日、N町でクジラの耳かきを見つけ
ました≫と・・・あなたの歌うような文字で。


その夜、海は私の夢の中で暗く凪いでいました。
海沿いの道を、あなたはクジラの耳かき(それは
巨きなスプーンのようにも、空から落ちた三日月
のようにも見えましたが)を背に、南への途をう
ろうろと歩いています。空には月が無く、沖の方
を大きな耳をした一頭のクジラが通り抜けてい
きました。


クジラの耳の底で星の光が揺れていました。クジ
ラの鼓動とひとつになってチカチカと光っていま
した。あなたの吹くオカリナの一節も、死者のつ
ぶやきも、麦の穂のざわめきも何もかも、混沌の
まま、そこでひとつの星になって透き通っていま
した。それは≪宇宙の音≫でした。宇宙はクジラ
の耳の中で鳴り響く音楽でした。


クジラの耳かきとは何でしょうか。だれかの落
し物でしょうか、それとも忘れものでしょうか。
今ではもう何のために在ったのか、誰も知らな
い奇妙なものが、けれど何故か美しいものが、
世界のあちこちにあって・・あなたはいつもその近
くを歩いているのですね。私はいつか≪巨人の臼
歯≫を見たことがあります。それはただの土くれ
のようですが、ほんとうは、人類になりそこねて
太古に滅んだヒト属の痕跡なのでした。


この世界はかって途方もなくにぎやかな星だったの
でしょう。そしてあなたの背負っているクジラの
耳かきは、そんな遠い祭りの日のかたみなのでし
ょうか。今ではだれにも憶い出せない痕跡ばかり、
無数に散らばっている隠し絵のようなこの世界・・・
そのどこかを今日もあなたは一人で歩いています
か。いつか海辺の岩から古代の笛の音色を取り出
したあなたは・・・。



またお便りを下さい。年老いたクジラの聴く≪宇
宙の音≫の記憶を・・・隕石の遠いこだまを、マリン
スノウの無言のざわめきを、そしてひとすじの笛
の音色を・・・わたしにふたたび運んでくれる、そんなあ
なたの便りを。


オカリナ奏者○○○○○さんからの便り
クジラの髭でできた象牙色の耳かきを長崎のお土産に水野さんに差し上げところ、
詩の中に登場させて下さいました。恥ずかしい。もっと奥の原形モデルはスナフキ
ンかもしれません。
失われてしまったものや絶滅した動物、亡くなった人々との交流、無意識の中の
共通の世界をのぞかせてくれる昔話や童話の世界とこの世を自由に行き来する
水野さんは、ほんとうに現代の魔女です。
全作品が今回9月にいただいた水野るり子詩集(新・日本現代詩文庫100)に収
められているようです。

いただいた詩誌「ラプンツェルのレシピ」の表紙の相沢律子さんの絵が本当に気
に入っています。

ラプンツエルのレシピ.jpg
詩誌「ラプンツェルのレシピ」(Gの会) 絵 相沢律子  2009年3月
編集 水野るり子 坂多瑩子
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詩「心を洗濯する」   絹川早苗     詩集・マダム・ハッセ―より [詩]

★ お詫び
前回投稿の、湯ネッサンス「テルマエ・ロマエ」は、下書きに保存するのを忘れ、三分の一ほど書いたところで公開してしまい、気付いた時には約30人の方々にナイスをいただいていました。ほんとうに失礼いたしました。




詩「心を洗濯する」 絹川早苗    詩集マダム・ハッセーより

命の洗濯 と言う
日に一回掃除をするように
マダム・ハッセーは 心の洗濯をする


不快 屈辱 煩いなどは 洗い流し
傷口もちゃんと消毒して 日に晒す
積もれば垢じみ脂じみて汚ない
しかし他人へ与えたものは 決して忘れてはならない
洗い清めるには手間ひまがかかるのだから
それらは ときには膿むことさえある
だからマダム・ハッセーの心は いつも
糊のきいた さらりとした手ざわり
風と陽のにおいもして


館の扉を押した あなたは
遠来の客のように珍しがられ 歓待されるだろう
 (ときには きのう会ったことさえわ忘れられているけれども
いつも懐かしい 手なれた木綿の抱擁


マダム・ハッセーに 特別な親友はいない
けれども 誰もが いつでも親友になれる
 (それは はかなく 寂しいことだろうか?
 (人目にふれなくても野の花は 精一杯咲ききってから散る


※ 詩人の絹川早苗さんは、詩集「マダム・ハッセー」のあとがきに、「マダム・ハッセーは、作者の自画像?憧れ?哀れみの対象?それは本人にもわからない。腹話術で人形が、いくら操る人間から離れた声やパーソナリティを与えられても、やはり根元はつながっている、と言うようなものかもしれない。」と書いている。
いつも穏やかな雪洞(ぼんぼり)の灯のような詩や、自然と一体化してその一部になった詩を、遠近の距離をたもちつつのその奥から書かれる詩人だ。
絹川さんは、よい意味で自然界の操り人形と化してしまっていて、草や木や動物の言葉がわかり、草や木や動物になって、そこから発信しているのではないかとさえ思える。(もちろん人間の絹川さんとはつながっている)
今回の詩は、一層かりやすく、万人に共通するものが含まれている。
最期の一行の「人目にふれなくても野の花は 精一杯咲ききってから散る」は、しつこい教訓とは別世界の域にあるものとして、素直に胸にはいってくる。



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詩「にょしんらいはい」 小川アンナ  ぺッパーランド編「母系の女たちへ」 現代企画室 から [詩]

母系の女たちへ.jpg
「母系の女たちへ」ペッパーランド編(現代企画室・1992年12月15日初版)


詩「にょしんらいはい」 小川アンナ

おんなの人を きよめておくるとき
いちばん かなしみをさそわれるのは
あそこをきれいにしてやるときです
としとって これがおわりの
ちょうどふゆのこだちのように しずかなさまになっているひとも
おばあちゃんとよんでいたのに おもいのほかにうつくしい ゆきのあしたのように
きよらかにしずまっているのをみいでたときなどは
ひごろいたらなかったわたくしたちのふるまいが
いかにくやしくなさけなく おもいかえされることでしょう
そこからうまれた たれもかれもが
けっして うみだされたときのくるしみなどを
おもいやってあげることなどなく
それは ひっそりと わすれられたまま
なんじゅうねんも ひとりのこころにまもられていたものです
てもあしもうごかず ながやみにくるしむひとのかなしみは
あそこがよごれ しゅうちにおおうてもなくて
さらしものにするこころぐるしさ


いくたびもいくたびも そこからうみ
なやみくるしみいきて
いまはもうしなえたそこを きよめおわって
そっとまたをとじてやるとき
わたしたちは ひとりのにんげんからなにかをしずかにおもくうけとって
いきついでゆくとでもいうのでしょうか



詩人 小川アンナ(1919~ )
詩「にょしんらいはい」を初めて読んだのは、「母系の女たちへ」ペッパーランド編(現代企画室・1992年12月15日初版)を詩人の水野るり子さんにいただいた時である。 
詩「にょしんらいはい」は、冒頭に掲載された詩で、心構えや覚悟を噛みしめた。
亡くなった女性たちの姿が次々に浮かび、そのことによって、この詩は私にとって、その人たちが生きていたことを確認するためのお経のようなものになった。
「母系の女たちへ」ペッパーランド編は、詩人の水野るり子さんが主に携わったと聞いている。
17人の女性詩人たちが、母への思いを、詩とエッセイで綴っている。
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詩『鳥を捕るひと』 水野るり子 (宮沢賢治・銀河鉄道の夜)より ・ 詩集「ユニコーンの夜 に」から [詩]

「鳥を捕るひと」 宮沢賢治(銀河鉄道の夜)より   水野るり子


銀河鉄道に乗りこんできた
鳥捕りのおとこは
捕獲したばかりの
サギや雁たちの荷をほどき
あの世へゆく客たちに振る舞った
ぺキペキと折られた
押し葉のような鳥の足を
おそるおそる口のなかへ入れるたび
子どもたちの舌の上で
それはほんのりと 
甘く 溶けていった・・・
(ものがたりのその時間に
いくたびも戻って来られるように
私はその頁に折り目をつける)
だが鳥捕りの
それからの行方はわからない
列車は今も茫々と
天の河原を回りつづけ
折々サギたちの声がするばかり
(鳥捕りは一介の商人だったが)
けれども
くりかえし くりかえし
車輪の回る音が
にぶくつづくだけの真昼
夢の片すみで
うすももいろの糖菓子を
ひっそりかじっている子供がいて
そんなとき 私は
(どこまでも どこまでもいっしょに)
その汽車に乗っていきたくなる)



どこもかしこも、詰問の嵐が飛び交っているのにも関わらず、何も伝わっていないように感じられる昨今。
ほとばしるエネルギーが空回りし、奈落の底の退屈地獄に堕ち込んでしまう逢魔が時。
この詩を再読するとすっとする。息を吹き返すことができる。
ここら辺りが、原初の森なのかもしれないと、繭の中でまどろみながら思う。

この世とあの世、または覚醒時と夢の間に立ち、古代や未来の生物や残留想念とも交流しながら、わずかに揺れ動く映像と音を伝えてくる水野るり子さんの現代詩。
掬えば掬うほど、こぼれ落ちる息づかいが、かすかな音を立てる。
宇宙音楽のようになつかしく木霊し、胸にいくつもの波紋を呼び起こす。

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詩 「さしもの鬼子母も」  狩野敏也詩集「中国悠々」より  2007年2月の別ブログの中から選抜 [詩]

詩 「さしもの鬼子母も」  狩野敏也(かのう びんや)

お婆ちゃんの原宿といわれる雑司ヶ谷の
鬼子母神を日暮れに訪ねた
安産と育児の神というのに、もはやその何れにも
関わりのない老婆たちがひしめいていたのだが
ボクが近づくと、なぜか連中は跡形もなく消えて
鬼子母神とボクは一対一と、あいなった
(その形像極めて端麗にして、天衣・宝冠をつけ
一児を懐にして吉祥果を持つ彼女に対して
恭しく一礼すると、鬼子母神はニヤリと笑った

「いゃあ、あのときゃ参ったな
ジャリが五百人いようが千人いようが
年とってもうけた子の可愛さは格別
末子の嬪伽羅を仏陀に隠されたときにゃ
恥ずかしながら一時は半狂乱になり申した」
と、端正な顔から、これは意外な伝法口調
(初め他人の子を捕りて食いしが、その最愛の
末子を仏に隠されてより改心し、のち遂に仏の
五戒を受け千子とともに正法に帰依したり)
・・・というのが真相でしょうと恐る恐る訊ねると

「いや、とんでもない、わたしゃ、人を食うから
鬼なのではない。鬼だから人を食ったのじゃ
柔らかい乳児、酒飲みの男の粕漬けのような美味
爛熟した人妻の味わい、老爺の堅いのもまたよし
我が子の一人や二人隠されたぐらいで
この悪癖が、にわかに改まるものか・・・あの子を
隠されてからも、しばらくは人を食っていたわな」
(それではいかにして?・・・)と思うやいなや
口に出さぬうちに彼女はボクの心中を読みとって

「これじゃ、これじゃ
仏陀はこれで我慢せよとて下さったのよ
鬼子母神は懐から
一房の奇妙な果物を取り出してボクに投げ与えた
(アッ、茘枝・・・。あの楊貴妃も愛したという・・・)
ボクは絶句しつつも、そのごつごつした果皮を
すばやく剥いで白い実を頬張った。
(うん、たしかに人の肉の味がする、これなら充分、
代用になるな)と納得しながら鬼子母神を見上げると
彼女は、もはや寸分の身じろぎもせず、いつの間にか
もとの冷厳で端正な表情の木像に戻っていた



その饒舌な風刺、これでもかこれでもかと吹き出て来るユーモアのある会話に引っ張り込まれる。
狩野敏也さんから頂いた詩集を、元気がなくなると読ませていただいています。
架空の人物と熱い会話を弾ませることの出来た詩の魅力!
背骨は知性ではあるけれども、濃くてとろとろと旨く、独特なしかもどこか品のあるスパイスが溶け込んでいる狩野敏也さんのそれぞれの詩の読後に、様々な笑いが尾を引き、何日も続きます。
このような独自なぞくぞくする面白みはどこから来るのでしょうか。
私の狩野さんの詩の入り口は、「さしもの鬼子母も」(詩集・中国悠々から)でした。
詩雑誌の中に何十編も載っている、新しく買い換えた家や車を愛でるような、または萎れた花をいとおしむような、きれいなやさしいしずかな詩群の中で、この1編だけ、その時の私には、力強く存在している食虫花に感じられびっくり仰天しました。
同じような顔をした沢山の詩の中で、名前がなくてもこれは狩野さんの詩だと迷うことなく見つけられます。
何十年もの間、自分に足りていなかった濃いエキスをこの歴史ある詩鍋でたっぷりと味わえました。
8冊目の詩集「四百年の鍋」のような鍋がほんとうに中国の奥地にあるらしいです。
熊の手の時間のかかる料理があるのも狩野さんの詩で知りました。
狩野さんは料理本も出しています「男たちの料理」「花ひらく中華料理」歌曲のCDも、絵本も出版なさっています。
詩集は7冊目「中国悠々」8冊目「「四百年の鍋」9冊目「二千二百年の微笑」
いらぬ説明より自分の「さしもの鬼子母も」を書いてみろと鬼子母神から急かされます。


●詩の最後には茘枝(れいし)の説明がありましたがここでは省きます
 ルビがつけられなかった語の読み方  
嬪伽羅(ひんから) 吉祥果(ざくろ)













       
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